今回の記事は、ドイツ出張記の続きです。
という事で、
機内泊×2を含む6泊7日のハードな出張を終え、
日本に無事に帰ってきた。
実は無事ではなかったとわかったのが、
帰国の翌日(土曜日)である。
【土曜日】
お昼までは、症状も何ともなく、
ラーメンを食べに行ける元気があった。
しかし、夕方になり、
いきなり「あ、これ熱だな」
と自覚できるほどの熱さが身体全体から感じられ、
熱を測ったところ・・・
あ、終わった。
そう思った。
医療機器展示会は、
ドイツのルールに従うので、
もちろん全員ノーマスク。
しかも、喋りまくり。
ここでもらった可能性もあるが、
もっとまずいのは、帰りの飛行機。
エールフランスだったので、
フランスのルールが適用される。
つまり、こちらもノーマスク。
それが12時間にわたり、隣の人と至近距離が続く。
おそらくどちらかで、移されてるだろうな。
そんな予想をしつつ、
その日はすぐさまPCR検査を実施するため病院へ。
検査結果は翌日に出るということで、
帰りに大量のスポーツドリンクと、
保存食やレトルトを買い込んで帰宅。
ロキソニンを飲んで、布団に入ることにした。
しかしながら、時差ボケで全く眠れない。
体内時計が8時間ずれていたので、
日本の24時はドイツでは16時。
眠くなるはずがないのである。
【日曜日】
ようやく眠りにつけたのは朝5時頃で、
起きたら11時だった。
熱は39.5℃まで上がっていた。
これはもう、確定だろう。
検査結果を見るまでもない。
でも一応、何があるかわからないから・・・、
そう思って検査結果を見てみると・・・
結果:陰性
いや、うそだろ。おい。
こんなに熱が高くて、
喉も痛くて、
陰性??
いやいやありえない。
もう一度、検査をやり直しに行こう、
と思った数秒後、
追加で飲んだロキソニンが効いてきたのもあり、
意識を失うように、眠りについたのだった。
【月曜日】
息苦しさと、のどの痛みで目が覚めた。
熱は38.5℃。
これではまだ会社には行けそうにない。
PCR陰性だが、休む連絡を入れ、
かかりつけの内科に行ってみることに。
すると、
「発熱している方は院内に入らないでください」
と言われてしまい、病院の外へ。
感染防止でこんな対策をしているんだ、
と勉強になるとともに、
その対策が大正解だったことをのちに知ることになる。
寒い中、しばらく外で待つという苦行を経たものの、
なんとか万全に隔離した状態で診てもらえることに。
ただし、仮にコロナだったとしても、
特効薬のようなものは無いので、
コロナじゃない時と同様、
問診で薬を出すだけしかできない、
と言われてしまった。
発熱、のどの痛み、咳、痰、鼻水
それらに効く薬を処方してもらい、
ひとまずはそれらを飲んで過ごすことに。
結局その日は、
38度~39度を行ったり来たりしており、
病院に行った以外は、
基本的にずっと布団の上で過ごしたのであった。
【火曜日】
月曜から火曜にかけての夜は、全く眠れなかった。
夜に副交感神経優位になって気管支が狭まるため、
昼よりも咳の出る確率が上がり、
一度出始めると止まらなくなるのである。
さらには、時差ボケも重なり、
咳が安定している隙に寝ることもできない。
まさに地獄のような0~6時を過ごし、
知らぬ間に気を失っていて、
目が覚めたときは昼すぎであった。
当然ながら会社は休みであるのだが、
前日のうちに連絡しておいて良かった。
PCR陰性を信じていたのだが、
会社からは再度検査するよう連絡が来たので、
祝日明けの木曜日に再び出社するために、
今度は抗原検査を受けに行くことにした。
何かの記事で、
と書かれていたのを見ていたので、
まあ、どうせ陰性でしょ、
と思いながら検査を受けたのだった。
結果はこちら。
え、うそ。まじか。
やっぱり感染してたのか。
なんか、同じタイミングで検査を受けた人よりも、
結果を渡しに来るのが遅いなーとは思っていたので、
そんな予感がしていたのだが。
すぐさま会社に連絡し、
この週は休むことに。
こうなったら仕方がない。
とことん休むしかない。
それにしても、なぜ1回目のPCRで陰性だったのか。
周りの人でも、熱の出始めは陰性で、
その後で陽性になる人が何人かいたが、
自分もそれと同じパターンだったようである。
【水曜日】
この日も朝寝て昼起きるパターンだった。
そんなわけで、まだ熱も下がらない。
咳が止まってきちんと寝られれば良いのだが、
体内時計が完全崩壊している。
本来だったらそろそろ時差ボケが治るころだが、
その真逆である。
実は、この記事は、
そんな眠れない夜中に、
携帯の音声録音機能でひたすら文章を作っていったものを、
後で修正して作っていった成れの果てである。
なので、支離滅裂な部分があることはご了承頂きたい。
【木曜日】
ようやく熱が微熱に落ち着いてきた。
だが、咳がとにかく止まらないし、
痰も絡んで絡んで仕方がない。
いつになったらこの苦しみから解放されるのだろうか。
オミクロン株でよかった。
デルタ株までなら、これ以上辛いパターンもきっとあったと思うので、
不幸中の幸いとはまさにこのことなのだと思う。
【金曜日】
帰国から1週間。
発症以来、初めて熱が36℃台を示した。
まだ咳が出まくっているし、
時差ボケは治る気配が無いが、
ようやく、落ち着いてきた。
来週には仕事復帰できそうな気がする。
一応メールだけは見れているが、
ほぼ2週間不在だったようなものなので、
かなりの仕事が溜まっている。
復帰後の激務を想像して、
また微熱に上がってしまったので、
すぐに寝ることにした。
【土曜日】
ようやく完全に平熱に下がる。
咳だけはここから1週間以上続き、
この記事をアップする12月7日現在でも、
まだ後遺症として根強く残るのであるが、
本格的な闘病生活としては、
この日でほぼ終わりを迎えたのであった。
【日曜日】
実をいうと、この日、草野球の試合があった。
もちろん、治ったばかりの身体では試合に出れないし、
後遺症の咳で感染拡大してしまう可能性もあったので、
自分は出場しなかった。
だが、実はこの1週間、
病床に伏せながらも、
試合のセッティングをこなしていた。
思えば壮絶な1週間であった。
高熱で意識がもうろうとしながらも、
練習試合の申し込みを多数行い、
試合が決定したと思った矢先に、
自分を含めてドタキャンが多数発生。
火曜日時点で参加者5人。
残り5日で助っ人4人を集めなければならない。
ネットの掲示板でも募集にも手を出し、
他の参加者の協力もあって、
なんとか9人集めることに成功。
試合のセッティングは多数行ってきたが、
これほどしんどかったことは無い。
だが、試合は無事にできたようで、
それだけは良かったと心から思った。
なお、午前中の試合だったため、
時差ボケによって試合開始時刻に起きれず、
起きたときには既に試合が終わっていた。
【月曜日】
この日から仕事に復帰し、
溜まりに溜まった業務をこなしていく日々が、
スタートしたのであった。
しばらくは午前中は眠いことが多かったものの、
徐々に時差ボケも完全に治っていった。
2週間が経過した今も、
喉が完全には戻っておらず、
声が変だったり、たまに咳が出たりするが、
ようやく普段通りの毎日に戻った。
ということで、
長々と書いてきた闘病日記も終わりとなるが、
まとめると、発熱と咳と、
時差ボケを伴った睡眠障害がキツかったものの、
それ以外の症状が出なかったのが、
不幸中の幸いであった。
とくに、味覚や嗅覚に異常が出なかった、
というのが個人的にはラッキーだったと思う。
美味しいものを食べるのが生き甲斐のひとつであったし、
それを奪われなくて本当に良かった。
今は普段通りラーメン屋通いも再開することができたので、
次回からは、また食べ物に関する投稿も再開していこうと思う。
日本国内でも、第8波ということで、
感染者が増え続けているので、
皆様もお気をつけください。